■カメラマンになるいきさつ
魚:そもそも松田さんはいつから写真に興味持ちましたか?
松:小学生の時ですね。きっかけは父のカメラをおもちゃにしてて。富士フィルムの「ダークレス」って覚えてます?あれが初めてでしたね。
魚:ネオパン入れてやったことありますねぇ。
松:それから中学生で一眼レフ撮るようになって、勝手に学校で写真部作って現像してました。写真部っていってもボク一人でしたけどね(笑)中高生の頃はよく部活とか撮ってたんですけど、スポーツ写真に憧れていてNUMBERを撮るのが夢だったんですね。そしたら当時ちょうど雑誌CAPAで水谷章人先生のスポーツ写真を勉強する企画があったので応募して、1年間生徒を育てる生徒役やりましたもん(笑)しかも褒められちゃったりしてその気になりましたよ、オレこの道しかないじゃんって(笑)
魚:じゃあもうその頃からなりたかった?
松:カメラマンになりたかったですね、絶対写真学校行って目指そうって決めてました。その時写真ブームだったので写真誌もたくさん出てましたがその中でもやはり一番好きだったのが「写楽」(小学館)ですね。学生ながらに写真が”その先の表現”として、伝えられるモノの幅だったり深さだったり直接さだったり、とにかく衝撃でした。
魚:その頃にそこに気づいたってすごいですね。
松:その後写真学校に進んで、ボクも魚住さんと一緒で音楽好きだったから友達のバンドとかも撮ってたりしたんですけど、ある日友人が下北沢の屋根裏で録ってきたデビュー前のブルーハーツの音源を聞かされて「コレヤバイ!」ってなって。その場で即行動電話しましたよ、ブルーハーツの事務所に(笑)「撮らせてほしい」って言ったら「撮りたいんだったらいいよ」って。まだ学生だったけど2ndアルバムの予約特典ポスターに起用してもらったのがはじめてのギャラでしたね。
魚:ボクその頃新星堂でバイトしてて、”ブルーハーツアルバム予約受付中”ってPOPを書いた記憶あるなぁ。
松:それボクが撮ったカットかもしれませんね(笑)その後就職した婦人画報社の社スタでスタジオマンやりながら音楽の写真は撮ってたんですけど、なかなか音楽ではゴハン食べられなくてこれは無理かなって。
魚:それがいくつぐらいの頃?
松:25,6歳でしたかね。そこからフリーのアシスタントもやっていたので、出入りするファッションのモデルやメイクとかと出会って、一緒に作撮りして女性誌に売り込みに行きました。若かりし”自分のトガった写真”じゃなくて、その雑誌のテイストに合わせた、編集者の気に入りそうなブックを作って持っていってました。
魚:このページだったらボクもすぐ撮れますよってね。
松:そうそう(笑)自分も媒体に合わせてシュミレーションしてましたし。女性誌でも最初に来る仕事は”ストリートスナップ”、そこからファッション、ビューティ、巻頭、表紙といろいろやりましたね。